ある日の午後、大阪府警捜査一課に事件を知らせる電話が響いた。森下恵一は現場に向かう途中で、上司である船曳警部に聞いてみた。
「厄介な事件だと、火村先生に連絡ですよね」
「えらいうれしそうやな」
しまった。声に出さないようにうれしがっていたつもりなのに‥
森下は反省し、そして開き直った。
でも仕方ないよな。あの人に会えるかもと思っただけで、顔がにやけて声が弾んでしまう。これは不可抗力だ。だがとりあえず今は警部の前だ、ピシッとしていなくては。
配属一年目のはりきりボーイは、表情を引き締め、背筋を伸ばした。
「これは火村先生に連絡するか」
上司のその言葉に、森下はすかさず反応した。
「僕が連絡します」
即座に電話をかける。助教授はすぐにつかまった。事件の概要を伝えると、今からこっちに向かうとの返答があった。これで電話を切っておけばよかったが、森下は不用意にも聞いてしまった。
「有栖川さんもご一緒ですか?」
一瞬、電話の向こうから殺気が感じられた気がした。
「アリスも必要ですか?」
さっきより数倍冷たい声が返ってくる。森下は思わず謝ってしまう。
「す、すみません。ただ、大抵ご一緒にこられるので…」
そう言うと、相手は全く口調を和らげることなく――むしろ、より冷たくなった口調でさらりと答えた。
「アリスも連れて行きますよ。丁度昨日からうちにいますし」
気のせいか「昨日から」の部分に力がこもってたような。いや、それより・・有栖川さんは、また火村先生のお宅に泊まったんだな…。
電話を切った後、森下は浮かない表情で捜査に戻った。
――約一時間後――
「有栖川さん。と、火村先生。わざわざどうも‥」
メインは火村であって、アリスはその助手にしかすぎないのに、森下はアリスを先に呼んでしまった。アリス自身も、隣にいる船曳も特に気にしてはいなかったが、アリスの隣にいる、助教授でもあり名探偵でもある、火村英生の眼がキラリと光ったのを、森下は見てしまった。
事件は、火村助教授の活躍でものの数時間で解決した。もう少しゆっくりでもよかったんだけどなぁ。と、森下は心のなかでつぶやいてみる。
せっかく久しぶりに有栖川さんに会えたのに、もうさよならなんて‥。そうだ、思い切って、有栖川さんを飲みに誘えばいいんだ。
火村が、少し離れたところで警部と話しているのを確認して、森下はアリスに近寄った。
「有栖川さん、今夜お暇ですか?よろしかったら、飲みにでも行きません?」
「あ、いいですねぇ。行きましょうか」
森下は、天にも昇る気持ちだったが、次の瞬間ジェットコースターのように急降下した。
「火村、森下さんが飲みに行けへんかって」
「森下刑事が?じゃあお供させていただこうかな」
火村は口元に笑みを浮かべながら言ったのだが、その笑みが、森下には悪魔の微笑みに見えた。
でもまぁ、火村先生もついてくるとはいえ、有栖川さんと飲みに行けるのには違いない。チャンスがあれば、二人きりになれることがあるかもしれない。――可能性はかなり低いが――
そんな、天地が逆さになってもこないようなチャンスに心を弾ませるところが、森下が火村にかなわない理由のひとつであることは言うまでもない。
火村がいることは少々計算外ではあったが、アリスと飲みに来ていると言う事実がうれしく、居酒屋からミナミの洒落たバーに移るころには、森下はかなり酔っていた。酒の力を借りて、今なら普段聞けないような質問もできる。そう思ったのが不幸の始まりだったことを、森下が知るはずもなかった。
「有栖川さんは、昨夜も火村先生のお宅に泊まったんですよね?」
「え、何でそんな…」
アリスは、なぜか慌てた様子で火村の顔をうかがい、頬を染めた。しかし、うつむいてしまったので、森下は気づかなかった。黙ってしまったアリスの代わりに、火村が答える。
「泊まりましたよ。もっと詳しく言えば、一昨日から泊まってます。それが何か?」
抑揚のない声だったが――いや、だからこそ――聞く者に威圧感を与える。森下は、ひるみながらも返答する。
「いえ、仲がよろしいなと思いまして。よくお互いの家を行き来されるんでしょう?うらやましいです。僕はそんなに仲のいい友人がいないもので‥」
火村は「そうですか」とだけ答えて、キャメルを取り出した。暫くの沈黙の後、アリスが、風に当たってくるといって席を立つ。思いがけず火村と二人きりになってしまい、森下は動揺してしまう。不意に火村が口を開いた。
「森下さん」
「は、はい」
教師に説教を受ける生徒のようだ。森下は自分の今の状況をそう感じた。一体何を言われるのだろうと、身構えてしまう。
「今日の事件、森下さんの一言がヒントになりましたよ」
予想もしていなかった言葉に、拍子抜けしてしまう。身構えていた自分がおかしく、苦笑を浮かべながら言う。
「いえ、そう言っていただけて光栄です」
何だ、別にびくびくする必要はなかったんだ。最近、火村先生の前に出ると、訳もなく恐怖を感じることがある。特に有栖川さんが一緒だと、その確立は非常に高い。もしかすると…いや、そんなはずはない。
森下は自分の考えを否定した。まさかあの二人が恋人などであるはずがない、と。考えていることが顔に出ない火村なら解からないが、すぐに顔に出てしまうアリスが、そんな大きな秘密を抱えているわけがない。森下は必死に自分に言い聞かせた。
「アリス、飲みすぎだぞ」
そんな言葉に我にかえる。見ると、アリスが戻ってきていて、かなりアルコール度の高い酒を呷っていた。その原因が、さっき自分が投げかけた質問にあるとは、森下は考えもしなかった。アリスは、さっきの森下の質問により、昨夜のことを思い出してしまい―― 昨夜何があったのかはアリスと火村にしか分からないが――恥ずかしさで居た堪れなくなり、飲みつづけていたのだ。
「あんまり飲みすぎると、体に悪いですよ」そう言おうとしたが、声にはならなかった。森下は、アリスに――相当酔っているのか、眠そうな眼をして頬をほんのり染めたアリスに――見とれてしまっていた。視線はアリスに固定されたままで、森下は自分の心にある、ほのかな想いを再確認させられた――想い人の向こう側の男が、そんな自分を冷静そうに観察しているのにも気づかずに――。学生時代に抱いた覚えのある、ほのかな恋心によく似た想いだった‥。
「なんか、ここ暑いなぁ」
「暑いなら、シャツのボタンを外せばいいだろ?」
火村はアリスにそう言って、なぜか森下のほうをチラリと窺った。
「そうやな、そうしよかな」
アリスは、シャツのボタンを二個外した。森下は、なぜかどきどきしてしまい、アリスのほうを見ることができなかった。
「森下さん、そろそろ帰りませんか?このままだと、アリスが飲みつづけそうですから」
火村の提案にYESの返答をし、アリスに手を貸そうとした――足元が危なかったのだ。
そのとき、森下は見てしまった。アリスの胸元に散らされた花びらのような赤い痕を‥。
よっぽど鈍感な者でなければ、これが何であるかは、容易に想像がつく。ましてや、森下は曲がりなりにも捜査一課の刑事である。その痕を誰がつけたのかをも、想像していた。
有栖川さんに付き合っている女性がいるとは聞いていない。そういうことを語り合う仲ではないが、いればなんらかの形で耳に入るだろう。それに、昨日、一昨日と有栖川さんは火村先生のところに泊まったはずだ。まさか‥‥
森下が一人で悩んでいるのを知ってか知らずか、火村は更に追い討ちをかける。
「アリス、今日はお前んちに泊まるからな」
その一言だけでも、今の森下にとっては十分な衝撃を与えたが、次のアリスの言葉が決定打だった。
「えー、火村がくるとベッドが狭なるやんか」
アリスは、火村に抱えられるようにして、ぶつぶつ文句を言っている。しかし今の森下には何も見えていなかった。アリスと火村がそういう関係であるとは、到底信じられなかったが、現状を見る限りでは信じざるを得ない。
「じゃあ森下さん、おやすみなさい。また誘ってくださいね」
タクシーに乗り込もうとしているアリスが森下に笑顔でそう言ったが、その笑顔が今の森下には辛かった。その隣にいる火村の涼しげな瞳が、森下を余計に落ち込ませる。
「火村先生、有栖川さん、今日はお疲れ様でした。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
火村がそう言って、タクシーが発車する。森下は、ひきつった笑顔を浮かべたまま手を振った。
「はぁ…」
ため息しか出てこなかった。相手が火村ではかないっこないと思う。今まで気づかなかった自分が情けなくなる。
「でも、想ってるぐらいはいいよな」
そうつぶやいて、上着を肩にひょいとかける。あの人の真似のつもりだが、どうも様にならない。それが自分とあの人の格の違いか、とため息がでる。どうせかなわないのだ、張り合っても仕方ない。それならばいっそ…。森下はつぶやいてみる。
「有栖川さん、お幸せに…」
その科白は明るい夜の街に消えていった。
THE END