猫とアリスとコーヒーと



 まずい時に来てしまった。火村の顔を見た瞬間そう思った。こんなことなら用事が終わった時に素直に大阪に帰っていれば良かった、こうも思った。

 京都での用事が思いのほか早く終わり、ふと、しばらく会っていない友人の顔でも見に行こうかと思いついた。留守かもしれないと思いつつも、連絡を入れることなく訪問してみた。そしてチャイムを鳴らして20秒後、冒頭のような心境に至ったのである。
「はい・・・なんだ、アリスか」
 長年の付き合いである私でなくても、今の彼の顔を見れば即座に悟ったであろう。彼の顔には不機嫌さが滲み出ていた。そういえば、と記憶を辿ってみると、一月ほど前に会ったときに、そろそろ論文をまとめるとか何とか言っていたような気がする。だとすれば、私は何と間の悪いときに来てしまったのであろうか。
「・・・もしかして、論文書いてたんか?それやったら邪魔したら悪いから帰るわ」
 じゃあな、と振り向きかける私を、いつもより数オクターブ低い火村の声が引きとめた。
「待てよ。せっかく来たんだから、上がってったらどうだ」
「いや、でも・・・」
「いいから上がれ」
 機嫌の悪い火村には逆らわない方がいい。そう判断した私は、思い足取りで火村に付いて二階へと向かった。
 部屋中に紙が散乱していた。おそらく資料なのだろう。それらを踏まないように気を付けながら、部屋の一角に腰を下ろす。
 火村はと言えば、さっさと書き物机に向かって執筆を再開している。話し掛けるのも悪いので、しばらくの間、周りに散らばっている資料を読んで時間をつぶした。
 30分ほどそうしていただろうか、顔を上げると、火村の様子に変化は・・・なかった。このままずっと静かに座っているのも退屈なので、コーヒーでも淹れようと台所へ向かった。
「ひむらー、コーヒー入ったで。飲むやろ?」
 書いてるモノは違えど、文章を書くことの苦労を知っている作家だからこその精一杯の思いやりを込めた問いかけに、机の前の助教授は腹の立つほどの無愛想な声で「ああ」とだけ言って寄越した。
 しかしまぁここで怒るのも筋違いだ。心優しき私――異論もあるだろうが――は、彼の机の上にコーヒーを置くべく、足元に気を配りながら進んだ――つもりだった。
「うわぁっ!!」
「アリス?」
 どんがらがっしゃん。漫画ならそんな文字が飛んだだろう。私のこけ方は、それほどまでに凄まじかった。
「いったぁ・・・」
 思い切り打った顔面を押さえながら立ち上がると、目の前には地獄絵図が広がっていた。
 数秒前までは白い紙だったものが、今では茶色に染まっている。
 恐る恐る火村のほうを見ると、冷気を携えた瞳と正面からかち合った。
「アリ・・・」
「悪かった!今のはホンマに俺が悪かった!何でもするから許してくれ」
 何か言われる前に謝った。どうせ謝らなくてはならないのだ、怒りをぶつけられる前に謝ったほうが良い。
「・・・本当に何でもするんだな」
「ああ、大阪人に二言はない」
「嘘つけ。・・・まぁいい。とりあえず、東京行きの切符買っとけよ」
「は?」
 話が飲み込めない。
「お前がさっき珈琲漬けにしてくれた資料、日本ではT大学の教授一人しか所蔵していない、滅多にお目にかかれない本のコピーだったんだよ」
「・・・ホンマに?」
 返事はなく、無言で睨まれた。
「分かった。今すぐってわけにはいかんけど、3日後ぐらいやったら行けると思う」
 仕方がない。悪いのは私なのだ。東京にしかないのなら東京まで行ってやろうではないか。
 火村は数秒ほど逡巡した後、冷たく言い放った。
「まぁ他にも色々とやってもらうとして、とりあえず、畳拭いとけよ」
「・・・何でもやらせて頂きます」
「素直でよろしい。あ、あとコーヒーも淹れなおしてくれ」
「はいはい!」
 完全に観念した私は、こうなったら自棄だ!何でも言いやがれ!!と心の中でだけ叫んでおいた。
 淹れなおしたコーヒーを――今度は滑らないように必要以上に慎重に歩いて――机に置き、部屋の片隅に座りなおして自分の分のコーヒーを啜った。
 これ以上何かする前に立ち去ったほうが良いだろうと思い、声をかけようと火村に視線を移した瞬間、黒い物体が視界の隅に映った。火村を目掛けて飛びついていったそれは、ほんの少し目標を誤り、机の上に置かれたマグカップに向かって落下していった。
 !!思わず目をつぶった。
 マグカップが畳に落ちる音と、火村の小さな溜息が聞こえた。
「・・・コオ。駄目だろ」
 見ると、さっきの被害に勝るとも劣らない数の資料がコーヒーを啜っていた。
「全く。しょうがないな、お前は」
「ちょお待てや、火村。お前さっきと全然態度が違うんちゃうか?」
 さっきとは180度違う表情で愛猫を撫でる火村に、考えるよりも早く文句が出た。
「何で同じ事したのに俺は睨まれて、コオは撫でられるねん!」
「何だよ、撫でて欲しかったのか?」
「んなわけあるか・・・。コオにも怒れや、ってことが言いたいねん」
「ちゃんと叱っただろ。駄目だろ、って」
「あんなん怒ったうちに入れへんわ」
「お前なぁ、猫と張り合ってどうするんだよ・・・」
「そんなん分かってるけど、何か俺だけ損した気分やねんからしゃーないやろ」
「聞いたか、コオ。このおじさんは34にもなって猫と本気で張り合ってるんだってよ」
「・・・もぉええわ」
「なんだよ、帰るのか?」
「これ以上おったらここにある資料全部コーヒー染めの作品にしてしまいそうやからな」
「今度は暇なときに来いよ」
「そんなもん分かるか。あ、資料の名前と大体のページ数、FAXしてこいや」
「・・・ああ、明後日の夜送る」
「ほなな」
「ああ、またな」
 こうして、運の悪い一日は終わりを告げた――かのように見えた。

 その2日後の夜、終わりを告げたはずの最悪の一日は、日を改めて私を襲ったのだった。
「何で用事もないのに東京行かなあかんねん」
 私は愚痴をこぼしながら「日本で一冊の資料を求める旅」の支度を整えていた。
 荷物――といっても着替えと本だけだが――を鞄に詰め終わった瞬間、タイミング良くFAXが送られてきた。
「あ、多分火村からの資料の内容やな」
 そう思ってFAX用紙を見た私は固まった。
 そして、そのFAXだけを掴み、京都まで車をとばした。

「よぉ、アリス。どうしたんだ?血相変えて」
 どうしたんだ、だと?理由が分かっていながらよくもそんな台詞が吐けるものだ。私は握り締めてグシャグシャになったFAX用紙を火村の顔の前に突き出した。
「どーゆーことやねん、これ」
「だから資料の詳しい内容だろ?」
「馬鹿にしてんのか?俺はこの前コーヒー漬けにしてしもた資料のことを言うてんぞ!」
「ああ、あれ。あれなら昨日大学でコピーしてきた」
 あまりにもさらりとした口調だったので、一瞬意味が分からなかった。
「は?何て言うた?今」
「だから、昨日大学でコピーしてきた。ちなみに論文は今朝仕上がった」
 ちょっと待て、T大学の教授はどうした?日本に一冊の本は?
「お前まさかあんな話信じてたのか?」
「信じるも信じんもあるかいっ。俺は本気で東京まで行く気やってんぞ!」
「・・・相変わらず単純だよなぁ。よくそれで推理小説家が務まるもんだ」
 推理小説家は関係ないような気がする。第一、騙した火村の方が悪いはずなのに、何故私が貶されているのだろう。
「あんな嘘吐いてどういうつもりやねん」
「罰だろ?」
「罰?」
「そうだよ。いくらウチの大学ですぐに手に入る資料だからって、コーヒーひっくり返されたのを笑って許せるほど俺は心が広くないんでな」
「・・・それであんな嘘吐いたんか?」
「可愛い罰だろ?」
「可愛ないわ・・・」
 もはや怒る力もなく、肩を落とし大きなため息を吐いた私の手から、FAX用紙が滑り落ちていった。

 必要資料 『月光ゲーム』/有栖川有栖・著 該当ページ・全部
      『孤島パズル』/有栖川有栖・著 該当ページ・全部
      『双頭の悪魔』/有栖川有栖・著 該当ページ・全部

   尚、これらの資料を調達するのに東京まで行く必要はありません。


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あとがき

 遡ること半年以上前、うつぼ猿様より頂きましたキリ番リクエストの小説です。
 途中までは調子よく書けていたのですが、何処でどう迷子になったのか、出来上がりが大幅に遅れ、今日のUPとなりました(苦笑)
 リクエストは「助教授とコーヒーが出てくる話」ということだったので、そこに猫とアリスを加え、このように調理してみました。
 個人的には、コーヒーを両手に持ってこけた為に顔面を思いっ切り打ってしまったアリスがお気に入りです(笑)
 そしてもちろんお茶目な(アリスからすれば全然お茶目でもなんでもないと思うけど)お仕置きをアリスに与えた火村先生も大好きです。
 それにしても・・・いくらオリジナルキャラじゃないからって、自分で書いた小説を自分で大好きって公言するのはどうなんだろう。

 願わくばこの作品が皆様に楽しんで頂けますように・・・。

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